季節のスケッチ

#091
2016.11.29

何か、危ういような透明感のある綺麗な人だった。

共感しているという漫画家・小池田マヤさんの「放浪(さすらい)の家政婦さん」の単行本をいただいた。
結婚やカップル幻想に背を向けて、家政婦をしながら独り生きる女の話。。。
から想像するステレオタイプを全て裏切る主人公がとても魅力的だった。
いつか感想を伝えたいと思っているうちに「女子をこじらせて」が発表された。

女の生き難さについて書かれた部分には共感し泣きそうにもなった。でも、何かが(当たり前だけれど)自分の感じかたとは違うと思えた。テレクラで知り合った男性と初めてホテルにゆくところや、冷淡になった男の部屋で泣きじゃくるくだりなどは正直、痛すぎて読むのが辛くなった。
上野千鶴子先生が解説に書かれているように、揶揄的に「イタい」のではなくほんとうに「痛い」。

エッセイや人生相談ブログなどは折にふれ拝見していて、自分自身とも読者とも真摯に向き合い過ぎなんじゃなかろうか、大丈夫だろうか。

いつも何かそのような思いがしていて、お会いしたときの危うい透明感と、大丈夫だろうか、という漠然とした印象がこんなふうに現実になってしまったのかと愕然とした。

尊敬するサンディ・デニーも杉田久女も、女の創作者・表現者として生きようとして生き切れなかったひとだった。
サンディはプロデューサーでもあった夫に、久女は恩師の高浜虚子に拒まれ、拒絶されて自分を見失っていった。
このふたりのことを考えるとき何かしら無力な思いと苛立ちと、そんな無力や苛立ちを感じさせるものへの怒りが、その矛先が他ならぬ彼女たちに向かうのが不思議だった。

うーむ、これぞミソジニーという奴ならば、その根は実にふかい、と思った。彼女たちの芸術を尊敬する思いとその苛立ちはどうしてもひとつにならないのだった。
そう、こじらせ女子なんて言葉が流布したために「こじらせてますよね?」とか言われると大迷惑だった。ちょっと待ってよ、どういう立場でそれを言ってるの?
と不愉快だった。

怒りや不快の矛先がその言葉を流布させた当事者に向かう。見当違いだがおおいにあり得ることだ。
「こじらせてる」ってのは「人からの評価」ではなく「当事者の問題」なんだといくら説明しても、一旦拡まってしまった言葉は取り返せない。届いて欲しいところに届かない。

久女やサンディと同じように、そのひとの才能を惜しみ悼む気持ちと勝手に「こじらせ」認定されて感じた怒りや不愉快はどうしても一緒にならない。

サンディは30代、久女は50代。40代の入り口で旅立ったひとの、ブルーのペディキュアが鮮やかだった。
雨で滲む車のライトを透かしてそんなことが浮かんでくる。東京に居られないのなら戦線を離脱したも同じ。エッセイにそんな文章があった。

それは何の戦線で何からの離脱なのか、恐らく上昇志向や野心や夢といったものだろうと想像はつく。
自分を変えたいという思い、何かドラマチックなことが起きてすべてが変わるんじゃないかというシンデレラ願望みたいなもの。。。
いろいろ想像してみるが共感出来ない。しかし理解は出来る。たぶんそれは「女性」の深い社会病理と繋がっている。

何故なのか、どこが「不愉快」なのか、怒りや苛立ちの矛先が他ならぬそのひとに向かってしまう理由をちゃんと考えなくてはならないと思った。
それはそのひとが女であり私も女だから。そう思わせ考えることを促す切実さが、そのひとの言葉にはたしかに在った。


=しょうこ=

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