第2回『チェンバロ、クラヴィコード、フォルテピアノ、ピアノ、そしてウーリッツァー~17世紀から20世紀、歴史を旅する鍵盤楽器~その1』

2013年11月15日更新

本日11月15日、クリスマスアルバムのスタンダード・エディション、シングル『星影のワルツ』発売です。是非聴いてみてください。

「ジャパニーズ・エッセンシャル・ポップ・シリーズ」はベアフォレスト・レコーズのあたらしい、そしてとても重要なこころみです。

『星影のワルツ』を録音したスタジオはもう無く、このピアノも何処に行ったのかわかりません。ラスト・ピアノ・ヴァージョンは文字通りこのピアノを弾いた最後、という意味なのです。

うまく言えませんが、あのスタジオがもう無い、ピアノの居場所もわからないと云うことに、失望やかなしみよりも冷めない怒り、のようなものを感じます。

自分がそこで録音出来なくなったから、では無くて、音や音を作る場所がこんなに簡単に扱われて良いのかという、何か義憤にも似た怒りです。

音を守るために何をしたらいいのか、音楽のために出来ることって何なのか。今まで考えが及ばなかったことを考えるようになりました。何ほどのもんでも無い自分にはあまりに大きな命題です。

下手の考え休むに似たり、では無いですが、時代の流れはどーーすることも出来ないんだよ、考えたって無駄無駄、早いとこあきらめな、
時代だから仕方無い仕様が無いって、何もしないで時代のせいにして、そのうち音のことなんかどーでも良くなってまぁそこそこでいいや、ってそこそこ主義みたくなって、あんたにはイデアやロゴスと云うものは無いの?それで幸せなの?

―まるで心のなかの天使と悪魔がせめぎ合う例のマンガのような状態が続いていたのですが、天はあたしを見放さなかったのでしょうか。今年になって3人の素晴らしい楽器製作家との出逢いがありました。

オルガン製作家の須藤宏さん。チェンバロ製作家の久保田彰さん。そしてフォルテピアノ製作家の深町研太さん。

久保田さんの師匠は須藤さん、深町さんの師匠は久保田さん。つまり三代にわたる製作家とその楽器に出逢ったことになります。

パイプオルガン製作を目指して須藤さんに弟子入りした久保田さんはやがてチェンバロ製作の道を選び、チェンバロ製作に憧れて久保田さんの門をたたいた深町さんはフォルテピアノを製作するようになり、最近は須藤さんの師匠(!)御夫妻が同じ沿線にお住まいだということがわかり、もしもお会い出来たならじつに4代の師匠と弟子に巡りあうという経験をしたことになります。

選んだ道はそれぞれ違っても、その技術や精神が受け継がれてゆくこと、「良い音」とはなにかをどこまでも追い求めてゆくこと。それは一生終わらない勉強だということ。

工房にはいつも音楽があります。いえ、「音楽」は鳴っていないのに音楽がある。多分空気のなかに、楽器を造り上げるたくさんの過程のなかに在るのでしょう。

不思議ですね、音楽ががんがん鳴っていても「音楽」の無い場所ってあるのです。良い音を作り出していた場所も時の流れとともに失われてゆきます。

ここには「音楽」が、「音」がある。私はその空気に魅せられているのです。

これからDVDの撮影です。今日は夜にもう一度更新致しますね。

16日になってしまうかもしれませんが撮影の様子、楽器の歴史をもう少しくわしく御伝え出来るかと思います。

(11/15 8 a.m)




第1回『平均律からちょっとはなれて』。

2013年11月8日更新

「平均律」。音楽をやったり聴いたりしている人なら(してない人ももしかしたら)当然知っているだろう言葉です。

しかしこの"音律を均等に割る"という概念の歴史は意外に浅く20世紀に入ってからなのだと云うことを初めて知りました。

有名なバッハの『平均律クラヴィーア』は平均律が考え出されるずっと前のものということになります。元のタイトルの英語訳は『The Well-Tempered Clavier』~12音階のすべての調を含んでいる、と言う意味であり、「平均律~」は正確な訳とは言えないそうなのです。

ド・ド#・レ・レ#・ミ・ファ・ファ#・ソ・ソ#・ラ・ラ#・シ。
あるいは
ド・レ♭・レ・ミ♭・ミ・ファ・ソ♭・ソ・ラ♭・ラ・シ♭・シ。

12の音の幅を均等に割る前は8分の1、その前は6分の1などいろいろな調律の歴史があって、するとどうしても3度や5度が綺麗に響かないところが出てくる。

だから黒鍵をたくさん使う調の曲は書かれなかったし、どの調でも平均的に美しく響くよう便宜的、最大公約数的につくられたのが平均律、ということなのですね。

この「六分の一」チューニング――いわゆる「古典調律」でチェンバロを弾いたときはじめて、あぁ、これがこの楽器の「音」なんだと知る思いがしました。

その直後に現在のモダン・ピアノを弾くと、平均律のチューニングがとても機械的に聴こえてくるから不思議です。これを当たり前だと思ってたクセにね。いい加減なものです。

古典調律の音にはとても有機的な人間らしさ、奥深い透明感のようなものがあります。それが何なのか?と考えるとやっぱり「自然」に対する従順さ、ということなのかと思うのです。

平均律、はその名のとおり平均、や最大公約数というものが尊ばれるようになった近代にふさわしいと言えるかもしれません。より大きな編成、より大きな音量の必要性とともに広く一般化されるのは時代の必然とも言えます。

自然を愛でる、というような客観的な感情ではなく、自然に優しく、なんて優位に立つのでもなく――海を見てたら水に触れたくなる、身体ごと入って行きたくなる、自然とひとつになりたい熱情を忘れてしまうことは果たして発展なのでしょうか?自分がその一部なんだという安らぎを感じられなくなってしまったのが現代だとも思います。

話が大きくなって来ましたが、その熱情と安らぎ、両方が一体になっているような音。「六分の一」チューニングは私にはそんなふうに聴こえました。

「人間」は複雑でよくわからないけど、「命」というのは奥深く透明なものなんですね、きっと。音楽ってそれを表現しないでいられないと言う衝動なんだなと思えます。だから人間が音楽を必要としなくなることなんて多分、永遠に無いのです。


P・S
来週か再来週かその次(いいかげん)には6分の1の古典調律で歌うスズキの動画を御覧いただけるかと思います。平均律と比べてみてね。


次週は11/15掲載を予定しています。自宅でのDVD撮影の模様(ピアノ、チェンバロ、クラヴィコード、フォルテピアノの4台の鍵盤楽器に囲まれるスズキと楽器の歴史について)、『星影のワルツ』発売に寄せて、ジャパニーズ・エッセンシャル・ポップ・シリーズとは何か?について書いてゆく予定です。お楽しみに!