第2回『チェンバロ、クラヴィコード、フォルテピアノ、ピアノ、そしてウーリッツァー~17世紀から20世紀、歴史を旅する鍵盤楽器~その2』

2013年11月16日更新

その時代の楽器製作家は何を目指していたんでしょうか?という私の質問にいや、たまたまですよ、こういう素晴らしい理想があって夢があって、って云うのは後の時代の人間が勝手に言ってるだけなんじゃないかな、必死にやってたらたまたまそうなった、ってことだと思うんですね。

と深町さん。楽器の音色や外見の美しさに幻惑されて、こんなものを造る人はいったいどんな夢を描いていたんだろう、と思ってしまうのですね。

人間とか、人生といったものはシジフォスの神話を引くまでもなく元々が「無理」なものだと思うときがあります。

無理と云うのはあれが出来ないこれが嫌い、の無理ではなくて、も少し正確に言うと存在、は抜き難い不可能性のうえに辛くも成り立っていて、必死でない人も不安でない人もこの世には居ない、
"自己実現"だの"自己啓発"を考えるより寧ろこの不可能性について考えるべきなのじゃないか、――などと思うことがあります。

バッハだってモーツァルトだって生前は散々な目にばかり遇って、なんでこんな凄い人が?理解出来ない!と思うのがきっと「後の時代の人間が勝手に言ってること」なのです。

時代を追って聴いていくとわかるのですが、バッハもモーツァルトも物凄く、物凄~く独特です。剣呑、といって良いくらい「行き過ぎて」いる。

名曲、偉人、天才、そんな呼び名なんて本当にその後の人間の後出しジャンケンに過ぎません。あれをリアルタイムで聴いたらきっと凄くびっくりします。何か、概念がちがうんだもの。

音楽は夢のように美しく泡のように儚く、星のように輝き。。。そんなふうに思ってる人にあんなもの聴かせたってなんじゃこりゃあ!と思うだけです、きっと。

バッハの厳格な対位法のなかにある何とも云えない悩ましさや懊脳って何なのか?と考えると「神」という概念に突き当たらずにいられません。あんなに「人間」に肉薄した音楽を人々は聴いたことがなかったでしょう。

モーツァルトだって何だか"星のように輝く"美しい先人たちをからかって揶揄してるみたいな時があります。そんな諧謔味のなかに何かゾッとする殺気があって、あんなもの聴かされたってやっぱりなんじゃこりゃあ!だったと思うのです。

同時代の人たちを必要以上に弁護するわけではないけれど、そう考えると作曲家たちも楽器製作家たちも皆必死で、不安のなかで書き、考え、作っていたんだと云うことがわかります。

第二回のタイトルでもある「鍵盤楽器」というのは元々イタリア名で
クラヴィチェンバロ
と呼びならわされるものだったそうです。フランス名の「クラヴサン」は「クラヴ=サンバル」、なるほどイタリア語読みでは「クラヴィチェンバロ」です。

いまピアノ、ピアノと普通に呼ばれている楽器の正式な名前は「ピアノフォルテ」。これは私でも知っていました(p・fと表記することもあるもんね。)でも何故「ピアノフォルテ」なのでしょう。

それはチェンバロには無かった「強弱がつけられる」という画期的な特性のためなのだそうです。現在のモダンピアノの前身、昨日までわたしの目の前にあったフォルテピアノの正式名は
クラヴィチェンバロ・コル・ピアノ・エ・フォルテ
長っ!つまり弱と強のあるクラヴィチェンバロ、と云う意味なんですね。ピアノフォルテと云うのは現代的、便宜的ないいかたなのだそうです。し、知らなかった。。。

この「強弱がつけられる」という最大の武器によって、チェンバロが廃れ消えてしまうくらいの人気を博したのがフォルテピアノ、だったのですね。

いま目の前にある「クラヴィコード」はチェンバロの前からある楽器で、教会のオルガン奏者が自宅での練習や研鑽のために弾くことが非常に多かったそうです。

ピアノよりチェンバロよりオルガンより小さな音量、しかしこの楽器の内面的な表現力は素晴らしく、モーツァルトはクラヴィコードを使って『魔笛』を書いたそうです。

楽器と云うよりまるで自分自身の一部のように、心と直接繋がって一体になる。クラヴィコードの響きとは本来そういうものだそうです。

クラヴィコードを目の前にしながら「~だそうです。」なんて云うのは、私がまだクラヴィコードの本当の響きに全然届いていないからなのです。ーーいつか自分の内面と繋がっているような一体感、を感じることが出来るのでしょうか?

長くなってごめんなさい。続きはまた!