第1回『平均律からちょっとはなれて』。

2013年11月8日更新

「平均律」。音楽をやったり聴いたりしている人なら(してない人ももしかしたら)当然知っているだろう言葉です。

しかしこの"音律を均等に割る"という概念の歴史は意外に浅く20世紀に入ってからなのだと云うことを初めて知りました。

有名なバッハの『平均律クラヴィーア』は平均律が考え出されるずっと前のものということになります。元のタイトルの英語訳は『The Well-Tempered Clavier』~12音階のすべての調を含んでいる、と言う意味であり、「平均律~」は正確な訳とは言えないそうなのです。

ド・ド#・レ・レ#・ミ・ファ・ファ#・ソ・ソ#・ラ・ラ#・シ。
あるいは
ド・レ♭・レ・ミ♭・ミ・ファ・ソ♭・ソ・ラ♭・ラ・シ♭・シ。

12の音の幅を均等に割る前は8分の1、その前は6分の1などいろいろな調律の歴史があって、するとどうしても3度や5度が綺麗に響かないところが出てくる。

だから黒鍵をたくさん使う調の曲は書かれなかったし、どの調でも平均的に美しく響くよう便宜的、最大公約数的につくられたのが平均律、ということなのですね。

この「六分の一」チューニング――いわゆる「古典調律」でチェンバロを弾いたときはじめて、あぁ、これがこの楽器の「音」なんだと知る思いがしました。

その直後に現在のモダン・ピアノを弾くと、平均律のチューニングがとても機械的に聴こえてくるから不思議です。これを当たり前だと思ってたクセにね。いい加減なものです。

古典調律の音にはとても有機的な人間らしさ、奥深い透明感のようなものがあります。それが何なのか?と考えるとやっぱり「自然」に対する従順さ、ということなのかと思うのです。

平均律、はその名のとおり平均、や最大公約数というものが尊ばれるようになった近代にふさわしいと言えるかもしれません。より大きな編成、より大きな音量の必要性とともに広く一般化されるのは時代の必然とも言えます。

自然を愛でる、というような客観的な感情ではなく、自然に優しく、なんて優位に立つのでもなく――海を見てたら水に触れたくなる、身体ごと入って行きたくなる、自然とひとつになりたい熱情を忘れてしまうことは果たして発展なのでしょうか?自分がその一部なんだという安らぎを感じられなくなってしまったのが現代だとも思います。

話が大きくなって来ましたが、その熱情と安らぎ、両方が一体になっているような音。「六分の一」チューニングは私にはそんなふうに聴こえました。

「人間」は複雑でよくわからないけど、「命」というのは奥深く透明なものなんですね、きっと。音楽ってそれを表現しないでいられないと言う衝動なんだなと思えます。だから人間が音楽を必要としなくなることなんて多分、永遠に無いのです。


P・S
来週か再来週かその次(いいかげん)には6分の1の古典調律で歌うスズキの動画を御覧いただけるかと思います。平均律と比べてみてね。


次週は11/15掲載を予定しています。自宅でのDVD撮影の模様(ピアノ、チェンバロ、クラヴィコード、フォルテピアノの4台の鍵盤楽器に囲まれるスズキと楽器の歴史について)、『星影のワルツ』発売に寄せて、ジャパニーズ・エッセンシャル・ポップ・シリーズとは何か?について書いてゆく予定です。お楽しみに!